12月8日(金)に令和6年度の第7回のおもしろ学校を行いました。講師は、名古屋芸術大学の土井謙次先生です。社会で、テーマは「秀吉が日本を救った?!-99%の日本人が知らない真実-」でした。
先生から「あなたの秀吉のイメージは?」と最初の問いが出され、周りの人と話し合いました。話し合ったイメージが、土井先生の授業を通してどのように変わっていくのかとても楽しみです。
先生から、明治時代の著名な 作家、歌人、宗教家が選んだ好きな歴史上の人物の1位は、豊臣秀吉で、 雑誌「冒険世界」の読者投票の全世界英雄番付の東洋の横綱も豊臣秀吉だったと説明がありました。
本日のデーマ「秀吉が日本を救った?!」につながる、秀吉の5つの政策をランキングして、最も重要なものから最も重要でないものまでダイヤモンドランキングの図に記入するという指示が出ました。
記入する前に、太閤検地、刀狩令(含兵農分離)、通貨政策、文化の保護、対外政策(含キリスト教禁止等)の5つの政策について説明がありました。
<太閤検地>
・面積・体積の単位の統一
・京桝を使用した石高(石盛×面積)の算出
・検地帳には、日本の歴史上初めて下級農民も登録される
・石高制(軍制・税制に利用)
・領主が村の境界を策定する村切が行われる
・自治的な地域社会から領主中心の社会への変化
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全国統一:システムの統一 ……近世社会は秀吉がつくった!
<刀狩令(含兵農分離)>
・刀狩令により、農民の武器所持を禁止し、兵農分離を進める。
・1569年、イギリスの兵隊の中で、銃を所持していたのは、6000人でした。長篠設楽が原の戦いでは、合計6200丁の鉄砲が使用されました。当時日本は世界最大の軍事大国で、たくさんの鉄砲を所持していました。
・米国の銃暴力の死者は、1万7000人を超えています。日本が治安がよくて、銃社会ではないのは、豊臣秀吉の刀狩令のおかげです。
大名の平和;惣無事令(1585年~87年)
村落の平和;喧嘩停止令(1587年~)
百姓の平和;刀狩令(1588年)
海の平和;海賊停止令(1588年)
出典『豊臣平和令と戦国社会』藤木久志(東京大学出版社)
平和な日本は、秀吉がつくった!
<通貨政策>
・日本では中国銭のみが流通していた。秀吉が、1587年から通貨単位の統一を図り、630年ぶりに国産通貨を発行した。
・重量・品位を定めた法定通貨を発行する。
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近世の経済社会の基礎をつくった
<文化の保護>
・秀吉が造った4つの城(大阪城、名護屋城、石垣山一夜城、伏見桃山城)を提示して、4つの城の共通点は何か?という問いが出されました。答えは、茶室のある山里曲輪でした。「領地よりも茶道具ほしい!」という茶による政治、信長から受け継いで、利休に習って、秀吉が大成しました。
・貴族は花見をする習慣がありましたが、庶民にまで花見を広めたのは秀吉です。
・能の保護…贔屓にしていた金春をはじめ、観世・宝生・金剛のいわゆる大和四座の役者たちに給与(配当米)を与え保護することで、支配下におきました。
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秀吉が日本の文化を守り、広めた
<対外政策(含キリスト教禁止等)>
・なぜバテレン追放令を出したのか?……九州の島津を攻めに行った時に、秀吉は大変びっくりしました。日本人数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足をしばって船底に追い入れていることを知ったからです。海外に連行された被害者は、5万人とも40万人~50万人ともいわれています。
・サン・フェリペ号事件……スペインの侵略の意図を知って、26人の聖人を処刑しています。
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秀吉が日本人奴隷の海外流出を防いだ
秀吉の5つ政策の説明の後、「正解はありません。皆さんの生き方にとって大切なものは何かを考えて1番から5番まで順位をつけて、ダイヤモンドランキングに記入してください」と指示が出ました。周りの人と意見交換してから、全体に発表しました。日本人が奴隷になっていたという衝撃的な事実を知ったため、多くの人が「対外政策」を1番に記入していました。
続いて先生が秀吉について深堀した内容の説明がありました。
・自分の名前を天下に轟かせる名誉欲
・褒美として渡す領地不足のために朝鮮出兵
・農民出身でありながら、農民の身分を固定化し、税で苦しめた
・弟・秀長の死でおかしくなった
・鳥取城の飢え殺しなど残虐非道
・秀次を自害させ、一族30数人を処刑
どうしてこのようなイメージがついたのでしょうか?
神君・家康より偉大では困る
○運の悪さが拍車をかけた悪イメージ
朝鮮出兵中にスペイン無敵艦隊が英国に敗れ、大義名分を失った
○明治以降の大陸進出の際に美化されたことへの反駁
○中国・韓国への忖度
○支配者が被支配者を虐めるという構図が崩せない
日本国民が日本人奴隷のことをなぜ知らないのか?なぜ加藤武雄著「豊臣秀吉」はGHQによって禁止されたのか?について、加藤武雄著「豊臣秀吉」のプリントを読んで、周りの人と話し合うように指示が出ました。
終戦後、進駐軍が、昭和21年から23年(1946~48年)にかけて、当時流通していた書籍のなかから戦後の日本人に読ませたくない書籍やパンフレットのリスト(7769点)を作成し、それらを秘密裏に没収・廃棄することをわが国に命じた。昭和23(1948)年7月からは全国展開されるようになり、昭和26(1951)年まで続いた。
GHQに協力したカトリック系大学の教授が本を選別した。奴隷貿易や宣教師による侵略意図、仏像破壊を隠匿するため、それらについて書かれている加藤武雄著「豊臣秀吉」も禁止された。
秀吉のイメージを覆す説明がありました。参加者の知らないことばかりで、秀吉に対するイメージがどんどん変わっていきました。
領土を広げるためではなく、東アジアに進出しようとしていたスペイン・ポルトガルによる植民地化を防ぐために出兵した。
秀吉は(基本的に)人命を重んじていた。
「敵の逃げ道を作ってから攻めよ」
「戦術ではなく、外交で勝つ」
「戦わずして勝ちを得るには、良将の成すところである。降参した者は、それ以上 攻めてはいけない。戦いは六、七分の勝ちを十分とする。」
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籠城戦(餓死)……早く降参しないから
非戦闘員串刺し……江戸時代の記録で疑わしい
刀狩り令と兵農分離は、農民の命を守るためだった。農民は戦闘員から外され、危険を回避できた。
秀吉以前、兵糧米は自前で不足分は略奪による現地調達をしていた。秀吉は、人夫(農民)の兵糧も準備していた。大軍の急な移動で炊き出しをさせた時は、対価を支払っている。
数少ない血縁を殺すとは思えない。本当は生かしておくつもりだったのではないかと疑問がわいてきます。
先生から、「あらためてあなたの秀吉のイメージは?」という問いがありました。周りの人と交流した後、全体でも交流しました。
感想を紹介します
○秀吉がきめ細やかな施策を行っていたことを知り驚きました。イメージでは、お金で人を操ったり、朝鮮へ出兵したりするなど、ちょっとよいイメージではありませんでした。しかし、日本人が暮らしやすくするなどの施策をたくさん行っていたことを知り、大変勉強になりました。少し歴史に興味を持つことができました。日本人を守っていただいた秀吉に感謝したくなりました。
○秀吉については、「人たらし」「立ち回りが上手い」「名古屋出身だか、大阪での人気がすごい」などのイメージでした。また、全国統一した後、弟秀長の死、甥秀次の切腹、朝鮮出兵など、負のイメージが強かったです。しかし当時、日本人が奴隷として売られていたこと、それに宣教師が関わっていたことなどは知りませんでした。また、朝鮮出兵の理由が、スペインの侵略に対抗するためだったという説は刺激的でした。負のイメージの多くは、後につくられたものがほとんどだということも納得です。
○秀吉の人間性を感じることができました。人を大切にする秀吉だから天下人まで上り詰めることができたのだと思いました。こういった人柄だったから、上の人からも重用され、下の人も支持したのだと思います。柴田さんの会社経営に通じるものがあるなあと思いました。力で支配するのではなく、人を幸せにすることで世の中を治めていく、そんな為政者が現れてほしいと思います。
○秀吉のおかげで日本が守られたのかと思うと感慨深いです。アメリカのような銃社会にならなかったことも秀吉のおかげなんですね。また、目から鱗が落ちました。
○びっくりしました。知らないことがいっぱい、教えられていなことがいっぱいありました。史実、資料に基づいているのなら、ぜひとも教科書の記述を変えなければならないと感じています。特に、日本人が奴隷となって西洋に売られていたことを知らさないといけません。まずは史実を固めることだと思います。40万、50万の日本人はどこへ行って、どう生活していたのでしょうか。とても気になります。
○秀吉のしたことが今につながっていることが分かり感動しました。歴史上の人物は、遠い存在で、自分とは関係ないと感じていました。今日の授業を受けて、歴史上に今現在があるんだなと思いました。