9月10日(土)に令和4年度の第4回のおもしろ学校を行いました。

講師は科学教育アドバイザー(元中部大学特任准教授)の小笠原豊先生です。
理科でテーマは「『へぇー、そうだったの!知らなかったわー!』私『推し』の科学者たち」でした。
小笠原先生推しの科学者を3人紹介していただきました。

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20220910omoshiro_02最初に紹介された科学者は、レオナルド・ダ・ビンチです。「モナ・リザ」や「最後の晩餐」などの世界的な絵画で知られるレオナルド・ダ・ビンチは、「そもそも科学者なのか?画家じゃないの?」を、生い立ちや業績をもとに解き明かしていきました。
 

20220910omoshiro_03「手稿」とは、レオナルド・ダ・ビンチが40年間、観察したこと、実験して調べたこと、じっくり考えたこと、思いついたこと、本で読んだことを書き綴ったノートのことです。3分の2が消失していますが、約5000ページが現存しています。
「手稿」の中に、釘も、ロープも、もちろん接着剤もいっさい使わない橋の絵が描かれています。}
 

20220910omoshiro_04小笠原先生が、レオナルドの橋を木の棒を組み合わせてどんどん造っていきます。周りで見ていた参加者から歓声があがりました。小笠原先生が木の棒で上から押しましたが、ロープで縛ったり、ボンドで接着したりしていなくても橋は壊れませんでした。

「この橋が実在したかどうかは不明ですが、500年も前にこういうことを考え、しかも正確に記録していたことに驚愕した。レオナルド・ダ・ビンチは何者なのか?生い立ち・生涯を追いながら、その人となりを知ろう。知っていると思い違いをしていた自分を深く反省し、大学(教育学部)での学生教育へのヒントを得よう。」と思ったと話されました。
 

20220910omoshiro_05 14歳でフィレンツェのヴェロッキオ工房へ、25歳で自分の工房を構えてひとり立ち、30歳でミラノの支配者ルドヴィコに使えます。ルドヴィコへの自薦状では、軍事技術者として売り込みました。レオナルド・ダ・ビンチの才能の一部だけですが、多才さがよく分かります。
 

20220910omoshiro_06 多くのレオナルド・ダ・ビンチの発明品が紹介されました。その中で、「自走車」「印刷機」「投石機」「自動演奏太鼓」「ヘリコプター」の模型を見せていただきました。実際に触って、動かしてみて、発明品のすごさを実感することができました。
 

20220910omoshiro_07「レオナルド・ダ・ビンチは、科学者か?画家か?」については、「自然界のすべての仕組みを知るために仮説を立て、実験し、証明していること、徹底して自然を観察していることから、レオナルド・ダ・ビンチは、科学者である。建築、解剖学、動物学、天文学、物理学、地理学、土木工学、飛行力学、鉱物学、数学、幾何学、材料工学、航空力学、生理学、植物学、軍事工学、音楽、流体力学、気象学、地質学、化学に才能を発揮した万能の天才、Super Scientistである。」というのがまとめでした。
 

20220910omoshiro_082人目の推しの科学者を当てるクイズが出されました。最初のヒントは、兄の写真。次に、自転車のイラスト。「36 12」の数字。最後に、弟の写真が出されて、やっと「ライト兄弟」の正解を出すことができました。

ヒントに出された自転車のイラストは、ライト兄弟の本業が自転車屋だったことからです。
「36 12」の数字は、世界で最初に飛行機を作り、自ら乗って飛ばしたときの飛行距離が36メートル、飛行時間が12秒だったことからです。
自転車屋さんだったライト兄弟が、なぜ推しの科学者なのか?生い立ちや業績から迫ります。
 

20220910omoshiro_09ライト兄弟は、兄2人、姉1人の5人兄弟の3男、4男として生まれます。子どもの頃、父親の土産のゴム仕掛けのヘリコプターに夢中になったそうです。この頃から飛行機への興味がスタートしていたようです。また、くず鉄を集め、そのお金で材料を買い学校の凧大会で優勝したこともありました。
デイトン高校時代、弟・オービルは、印刷機を自作して友人と学校新聞を発行していました。1889年に始めた週刊の新聞「ウエストサイドニュース」も大評判となっています。この頃病気の母親が亡くなります。臨終の言葉「ウイル、オーブ、これからも好きなことを貫くのよ。世間の目なんか気にしないで!」は、兄・ウィルバーと弟・オービルが、飛行機研究を始める後押しをしているようです。
その後、兄弟で印刷会社を設立します。配達に使っていた自転車の故障を自ら修理したことが評判となり、1893年に自転車屋を開きます。初めは売れませんでしたが、弟・オービルがオリジナル自転車に乗って大会で優勝して売れるようにしてしまいました。
1895年、ドイツ人のリリエンターレがグライダーによる飛行に成功します。翌年飛行に失敗して亡くなってしまいましたが、このニュースを聞いて2人は奮起し、いよいよ飛行機の研究を始めます。
 

20220910omoshiro_10 機体が飛ぶには、推力と揚力に加えて操縦技術が必要であると考えて、研究を始めます。鳥の飛行の観察から、「鳥は左右の翼を交互に傾けてそれで方向を変えたり、バランスをとったりしている。」「左右の翼を微妙に動かして翼に当たる空気の角度を調整している」ということに気がつきます。どうしたら左右の翼に当たる角度を変えられるか?暗礁に乗り上げますが、自転車のチューブが入った箱をねじっていて「翼の一方の端をねじり、もう一方を逆方向にねじれば、左右の翼に当たる空気の角度を変えることができる」ことを発見します。この発見から「たわみ翼」を発明し特許を取得します。この発明は、現在の飛行機において、左右のエルロンを逆に動かすという技術に応用されています。
 

20220910omoshiro_11 1900年9月、ノースカロライナ州のキティーホークで、まず飛行機型の凧で試しましたが、強風で失敗します。地元の人に手伝ってもらって修復し、操縦者が横ばいになって乗る、ロープで引っ張るエンジンなしのグライダーで700回飛行、最高120m、20秒の飛行に成功します。その後、技師のシャヌートの協力を得て、風洞装置を作って実験を繰り返し、すばらしい翼を完成します。
「自動車に比べて飛行機は雲泥の差の難しさがあります。ローリング(横揺れ)、ヨーイング(偏ゆれ)、ピッチング(縦ゆれ)の3つをコントロールして初めて大空を飛ぶことができます。それができたライト兄弟はすごいと思います。」
 

20220910omoshiro_12 兄弟は、自分たちで実験データに基づいて、大きな揚力を出す翼のカーブと形を見つけます。また、何百回という飛行を繰り返し、操縦技術の練習を重ねます。次は、エンジンで動く機体作りです。飛行機に乗せるエンジンを作ってくれる製造会社がなく、チャーリーテーラー技師と3人で、重さ82kg、平均12馬力のエンジンを作ってしまいます。プロペラも回転数が上がって推進力が得られるものを工夫を重ねて作ってしまいます。
1903年12月14日、兄弟は、「フライヤー号」で初めて、飛行実験に挑戦しますが、失敗します。3日後、1903年12月17日午前10時35分、オービルが操縦して、世界で初めて動力による飛行機が空を飛びました。飛行時間12秒、距離36m、高さ3mでした。その後、記録をどんどん伸ばし、1時間超えの飛行にも成功して軍に正式に採用されるまでになりました。
 

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完璧な安全を求めているのなら、塀に座って鳥を観察すればよい。しかし、真に学びたいのであれば、装置に乗り込み実際に試しながらその仕組みに精通する必要がある。(ウイルバー・ライト)
作る前に資料を集め、専門家の助けを求め、きちんと飛べることを計算して機体を設計した。自分でグライダーを操縦することで、飛行機の操縦法を作り上げた。全てを自分で確かめたところに成功の秘密がある。本業は自転車屋かもしれないが、ライト兄弟は、本物の科学者である。
 

20220910omoshiro_143人目の推しの科学者は、「解体新書」を作った杉田玄白、前野良沢、中川淳庵です。医者の3人が、なぜ推しの科学者なのか?生い立ちや業績から迫ります
 

20220910omoshiro_15 1733年、杉田玄白は小浜藩の藩医の子として生まれます。漢学やオランダ流の医学を学び、20で藩医となり、その後開業します。この頃、山脇東洋が刊行した初めての腑分け(人体解剖)の見聞記録「蔵志」を見ます。機会があれば自分も解剖を見てみたいと思うようになります。
1771年(38歳)、小浜藩の藩医の中川淳庵の協力のもと、「ターヘル・アナトミア」を藩費で購入してもらいます。
1771年3月3日夜、腑分けの実見の許可を得て、中川淳庵、前野良沢とともに、小塚原の刑場へ行きます。腑分けは、「ターヘル・アナトミア」の図解どおりで、それまでの「五臓六腑」説は完全に間違いであったことが分かりました。
「医師の基本とすべき人体の真の形態もしらずに、今まで医業を務めてきたのは面目ない次第である。通訳の力を借りずに翻訳したい」という玄白の提案を受けて、3人で翻訳を腑分け実見の翌日より開始します。
 

20220910omoshiro_16 前野良沢が、オランダ語にある程度通じていただけで、あとの2人は、オランダ語の知識はほとんどありませんでした。
暗中模索の気の遠くなるような翻訳作業でした。
翻訳作業法1…当てはまる言葉をそのまま使用。
「頭、首、脳、目、耳、肺、胃、肝、腎、骨」
翻訳作業法2…言葉の意味や働きに合う日本語を使って訳す。
「カラカベン」
「カラカ」…ネズミが容器をかみ砕く音。つまり、軟らかいもの。
「ベン」…骨
  ↓
「軟骨」と訳す。
翻訳作業法3…オランダ語の発音をそのまま使う。
「キリイル」→機里爾 ※現在では「腺」
 

20220910omoshiro_17 1772年(玄白39歳)、わずか1年半で、翻訳がほぼ終了する。
杉田玄白と前野良沢の意見が対立する。
杉田玄白「多少の間違いがあっても早く世に出すべき」
前野良沢「たとえ時間がかかっても完璧なものを出すべき」
妥協案として、1773年1月、本編の要約版「解体約図」を先行して発表する。
「解体約図」の絵をより正確にするために、秋田藩の小田野直武が加わります。
前野良沢との意見対立は続いていましたが、前野良沢の名前を一切出さないことを条件に、1774年8月「解体新書」が刊行されました。
 

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杉田玄白、前野良沢、中川淳庵の3人が、科学者として優れていたこと
○ 専門領域・得意なことをそれぞれ発揮した「チーム解体新書」
○ 「人々のために自分たちの知識・技術を活かしたい」
○ 最先端の知識・技術をしっかりと意識している
3人は優れた医者であり、優れた科学者でもありました。
 

感想を紹介します。

○授業の中に出てきた3人の科学者に共通しているのは、自分が興味を抱いた事柄に対する探究心、好奇心、貪欲さが半端ではないということなんだと思います。時間も寝食も忘れて熱中できるものを見つけられるかどうかが人生を豊かにする一つのポイントになるのではないでしょうか。

○とにかく話が面白く、話術が巧みで、90分間ずっと集中してお話を聞き入ってしまいました。今まで名前は知っていましたが、詳しい業績は知らなかった科学者たちのどういうところが凄いのかを教えていただき、とても為になりました。

○次から次に出てくる知識(情報)、そしてアイテム、まるでドラえもんのような授業でした。ダ・ヴィンチについて多少知っているつもりでしたが、とんでもなかったです。知らないことばかりでした。ライト兄弟については、ほとんど初めてでした。また、杉田×前野の不仲により、教科書では杉田玄白がメインになっている理由も初めて知りました。これからいろいろな資料で自分なりに学び直し、振り返っていきたいと思います。

○仮説→実験→検証を繰り返す科学者たち。3人の科学者に共通するのは、圧倒的な好奇心だと感じました。ライト兄弟の初フライトがどのような飛行だったのか、当時にタイムスリップして見てみたいです。

○今日はあっという間に時間が過ぎていきました。知らないことだらけでしたが、先生の探究の深さにびっくりの連続でした。本当に凄いです。自分の日常の視点や物事に対する姿勢を深く反省しました。