【活動報告】令和5年度 第7回おもしろ学校にて
12月8日(金)に令和5年度の第7回のおもしろ学校を行いました。
講師は、名古屋芸術大学の土井謙次先生です。
社会で、テーマは「織田信長はなぜ強かった?-将たるものに必要なものは-」でした。
20231208_01最初の質問は、「あなたの信長のイメージは?」でした。隣の人と自己紹介した後に、信長のイメージについて話しました。「怖い人」「強い人」「横暴な人」という意見が多く出されました。土井先生から「皆さんの信長に対するイメージが変わります。本当の信長について知ってもらいたいと思います。」と言われて、ワクワクドキドキが大きくなりました。
 
 
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「織田信長はなぜ強かったのか」について、6つの視点が示されました。「A先祖」「B経済力」「C先進性」「D家臣団」「E戦略」「F幸運」の6つの視点を、後ほど下のダイヤモンドランキングの6つの四角の中に記入することを予告されました。
 
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「A先祖、ご先祖が偉いから」についてです。
織田家は、もともとは越前町織田(おた)の神官でした。尾張守護の斯波氏とともに尾張にやってきました。尾張守護代の清洲織田氏(大和守家)の清洲三奉行の一人である弾正忠家でした。信長の祖父信秀が津島湊を、信長の父信秀が熱田の湊を手中に収めて経済基盤を築きました。
 
 
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「B経済力、先立つものはまずお金」についてです。
一人分の刀、槍、甲冑、弓矢等をそろえるのに約60万円、鉄砲も入れると約120万円必要でした。島津氏(旧記雑録)の記録によると、食費は、3日分は各自で持参しますが、3日目以降は1日5合、馬も1頭あたり大豆2升必要でした。秀吉の小田原城攻めでは、準備した兵糧米に72億円(126億円説も)かかったそうです。
その費用を信長はどうやって集めたのでしょう。
①物流改革…関所撤廃、道路整備
②楽市楽座…荘園領主や寺社、組合の権利を奪う、大減税
③マネーパワー(積極経済)
…鉄砲の生産に力を入れる。
撰銭令:鐚銭の価値を担保=貨幣の流通量を増やす。
畿内領域に通貨法令:金、銀、銅銭の交換比率を定める。高額取引に金銀を使用。
④港制覇…サプライチェーン(製造拠点、物流拠点)を押さえる。
 
 
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「C先進性、新しいこと大好き」についてです。
2万貫(約800億円?)の矢銭(臨時の賦課税)要求を堺にのませました。また堺の今井宗久に鉄砲の性能を高める改良をさせています。上杉や武田、北条、徳川よりも長い三間半もある長柄槍を使用して集団戦を行いました。

その他の織田信長の先見性・合理性
・清洲城割普請:マネジメント能力重視
・城下町(武士を強制移住)家臣団:兵農分離:1563年~
・天主建築・総石垣造:1579年
・天下普請(二条城・安土城):1569年・1576年
・城の設計(北の庄城):1575年
・外国の地球儀、地動説を信じる合理的精神
・キリスト教を利用
・茶器を褒美
・巨大船建造:1578年
 
 
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「D家臣団、家臣(+足軽常備軍)に恵まれた」についてです。
(尾張出身の)家臣を育てて、適材適所で配置し、強力な家臣団がつくられました。能力主義ですが、けっこう身内を大事にしました。秀吉、家康は信長を真似ています。
上洛後信長に従った武将は、後に謀反を起こしています。
<永禄元年まで>
尾張出身  柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、羽柴秀吉、前田利家、池田恒興
美濃出身  森可成、蜂谷頼隆
近江出身  滝川一益
<上洛後>
明智光秀、荒木村重、別所長治、松永久秀、波多野秀治
 
 
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「E戦略、勝つためのアイデア」についてです。
信長は、桶狭間の戦いの奇襲や長篠・設楽原の戦いでの馬防柵など、いつも戦術を考えていました。長篠・設楽原の戦いでは、鉄砲の三段打ちが知られています。この戦いの21年前の村木砦の戦いで鉄砲を取り替えて撃たせていました。長篠・設楽原の戦いでも、鉄砲を取り替えて撃たせていたと考えられます。長篠・設楽原の戦いで戦い方が変わったと言われていましたが、21年前の村木砦の戦いから戦術が変わっていたのです。
調略も行われました。小谷城攻略では、浅井長政の家来の7割が織田方についていました。
木津川口の戦いでは、一度敗れても、甲鉄船を準備するなどの戦略を駆使してやり返しています。
 
 
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「F幸運 運を味方につけた男」についてです。
まずは、朝廷からほどよい距離の尾張に生まれたことです。
信長は、数々の戦いにおいて運を味方につけています。
〇 1560年 桶狭間の戦い…突然大雨が降り今川軍があわてる。
〇 上洛できたこと
1565年永禄の変 松永久秀、三好三人衆
1568年の上洛戦
義昭・信長連合軍×義栄・三好連合軍 義栄が死ぬ。
義昭征夷大将軍になる。
〇 義昭の檄による1572~3年の包囲網のピンチで信玄が死ぬ。
〇 1575年 長篠の戦い 梅雨の時期なのに晴れて鉄砲が使えた。
〇 1577年 手取川の戦いで織田軍が敗れ、翌年の再進撃の際に謙信が倒れる。
 
 
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織田信長はなぜ強かったのか、ダイヤモンドランキングにAからFを記入してから、隣の人と話し合いました。強く思う四角の中には、B経済力、F幸運……いろいろな意見が出されました。さまざまな条件が重なり合っているので、皆の意見が一つに絞り込めなかったようです。
 
 
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革新的な革命児で、先進的な政治を行ったという信長のイメージは、どのようにつくられたのでしょうか?
<江戸時代>
家康より偉大な人物は困るという「徳川史観」により、人徳のない暴君として語られました。
<明治時代>
著名な作家、歌人、宗教家ら120人が行った好きな歴史上の人物のアンケート調査では、1位が20票の秀吉に対して、信長は1票しか入らず、ほぼ無名でした。
<戦後・高度経済成長期>
革命児として熱く語られるようになります。
<バブル経済絶頂期>
既成の権威に挑戦する革命家・信長を時代に重ねてスーパーマンのように扱いました。
<バブル崩壊後>
ほぼ一次資料に基づく冷静な信長観が語られるようになります。
・「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の統治を確立させること。天下統一を狙っていたわけではありません。
・「楽市・楽座令」を信長独自の革新的政策とする見方を否定しています。
・信長は新しい時代を切り開いた革命児という定説化しているイメージは修正されました。あくまで、時代や社会の状況に応じた望ましい現状の追認=『当知行安堵』を方針として掲げ、事業を進めていきました。
・彼の独創的とされる戦闘方法、外交政策、経済政策、家臣統制に、父・信秀からの影響がありました。
・「信長公記」の中の「山中の猿に情をかける」では、乞食にも情をかける信長が書かれています。
 
 
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<落合野球>
井端や荒木、森野の話によると、落合野球は、「普通の野球」で、決まったことをブレずにやってきたことがすごいのだそうです。
<野村野球>
鉄平の話によると、野村野球は、「考える野球」「準備野球」で、いろいろな状況をシミュレーションして、頭の中で準備するために、情報とその整理を大切にしていたそうです。
                 ↓
「信長はなぜ強かったのか?将たる者には何が必要か?」
・情報をつかみ整理することが上手く、やるべき事をやるべき時に準備をして行動した。
・ぶれない軸(信長の場合は“正義”)をもち、まじめにスキルを高めた。
・他の良いところを取り入れ、部下に範を示した。
・(信長の場合)運に恵まれた
 
 
感想を紹介します
○織田信長は、天下統一を目指したわけではないこと、父信秀の模倣をたくさんしたこと、幸運に恵まれたことなど、目から鱗のお話でした。とても有意義な時間を過ごすことができました。
○信長に抱いていたイメージが本当に変わりました。でも、ある意味、以前の信長の方がよかったかもしれません。英雄性などは、大河ドラマ用につくられた像だということが分かりました。こういうことはたくさん世の中にあるだろうと思います。真実を見抜く目をもつことはとても大事だと思います。
○織田信長のイメージが確かに変わりました。その時々の都合により、信長のイメージはころころと変わっていることが分かりました。正確な情報はいったい何なのか?そのエビデンスは本当に正しいのか?大量の情報の中から確からしい情報をいかに手に入れるかということも勉強になりました。
○織田信長については、とても頭の切れる人で怒らせるととても怖い印象を持っていました。本日の授業を受けて意外と甘い処罰で留めたり、天下を取ろうとしていたわけではなかったりと、革命家や覇王というようなイメージではなく、父や周りの武将たちの成功例をコツコツと積み重ねたからこそあれだけの総合商社のような大軍勢にまで成長させることができたのかなあと思いました。落合野球のようなブレない芯を持ち続けた人物だったんだろうなと人物像が変わってみえました。
○私たちが歴史上の人物にもつイメージというものが、いかに操作されたものかということを感じました。最近の研究で、朝廷や幕府の権威を大切にしたこと、天下布武は機内の安定を目指したものということは知っていましたが、乞食に施しをしたことは知りませんでした。代表的な政策である楽市楽座も先進的なものではなく他者の模倣だったことや、父信秀の影響が大きかったことなども心に残りました。